しあわせの薬



 ぽいと目の前に投げ置かれた錠剤を見詰める。黙ったまま放った相手へと視線を向けると、彼は紫煙を 吐き出して肩を竦めた。大人を気取った態度を嘲笑いはしない。自分もそう変わりはしないからだ。

「楽んなるぜ」

 彼は果たして己のどこまで知っているのだったか、と城之内は考えた。
自ら全てを晒した気もするし、何も告げてはいない気もする。だがこういう連中の情報網というのは侮れないもの で、黙っていてもある程度の事情は洩れているはずだった。

 なので、それは特別気にすべきことではないし、今はそれ以上にこの言葉と物への返答を考えるべきである。

 面倒臭い、と城之内は思った。それに治療薬も含めて、薬はあまり好きではない。苦いし不味いし いいものではない。しかし、目の前のそれは、聞けば、とてつもない快楽を与えてくれるのだという。

 興味がないわけではなかった。その証拠に、城之内の両手は未知なる物質を、観察するかのように弄んでいる。

「…やっぱいいわ」

 だが一分にも満たぬ逡巡の後、城之内はそれを突き返した。

薬はとても高価であり、 現在の己の生活を考えると、それを手にすることは恐ろしい贅沢だった。そしてそれ以上に、こんな小さなもの で幸せが得られるなど、到底信じられないという思いが心の深遠に潜んでいた。

それが正解であるか否かは 兎も角、少なくとも、安易に得られる幸福の存在を知ってしまうことは、城之内にとって恐怖であった。 それが如何なる理由からくるものかはわからない。

「代わりにそっち、くれよ」

 城之内が断ったからだろうか。すうと笑顔を消してしまった相手に、空気が重く傾く。

 それを引き上げる心算で、城之内は唇で笑んで彼の煙草へと手を伸ばした。だが指が標的を捕える前に、 手首の自由を奪われる。驚きと共に彼を見遣ると、悪辣な笑みが浮かんでいた。本能が危険を伝える。 捕われた腕に力を込めた。

「…離せよ」

「そう怖い顔すんなよ、俺はテメーの為を思って勧めてんだぜ。おい」

 最後の言葉は城之内に向けられたものではなかった。
周囲にいた雑魚な連中が、僅かな戸惑いを見せた後、わらわらと城之内に集り始める。羽交い絞めにされ、 顎を固定された。彼が錠剤を取り出すのが視界に映る。

「やめろ!いらねーつってんだろ!ふざけんじゃねぇ離せ!離せよ!」

 身を捩り、自由な脚を振り回して抵抗を試みる。だが多勢に無勢、抗いも虚しく、薬は呆気なく城之内の口内へ と捻じ込まれた。鼻と口とを塞がれぐうと呻く。諦めたかのように、全身の力を抜くと両手がだらりと落ちた。
押さえつけていた連中の力が、僅か緩む。

 その隙を突いた城之内の反応は素早かった。

力づくで右手をもぎ離すとその反動で反対側の男を殴り飛ばし、 男が倒れるのを呆気に取られて眺める背後の男には肘鉄をくれ蹴倒してやった。ようやく反応した残りは適当に あしらって、彼らに、城之内を押えるよう指示を下した男の胸倉を掴む。面白いとばかりに目を細める彼に 城之内も凶悪な笑みを返し、その瞬きの間に彼の唇に噛み付いた。

 周囲が唖然としてその動作を停止する。
こればかりは男も予想外だったようで、閉じられぬ目がさらに見開かれた。何か、個体が喉へと引っかかり、 男は思わずそれを飲み下してしまった。

「てめッ、」

 解放され怒号を吐き出す暇もなく鳩尾に拳が叩き込まれる。油断していたらしい彼は、弛緩した筋肉を通し めり込んだ衝撃に、耐え切れず蹲った。足元に水気が飛ぶ。城之内の吐き出した唾液であった。

「…いらねぇっつったろ?返したぜ」

 城之内はもう笑んではいない。冷めた声と面とで告げると、未だ動けずにいる男共の間を縫ってそこを出た。

 暖かな屋内に比べ、外は地獄だった。この時期に制服のみで出歩く人間など城之内くらいのものであったが、 彼とて好きでそのような格好をしているわけではない。だが防寒着を買おうとも思わない。それよりも、 明日の食事が心配であった。

 気付けば足は家ではなく近所の公園に向いていて、夕刻を回ったそこには人の気配がない。暗闇が苦手な 城之内は、しかし帰宅する気にもなれず、僅かな外灯を頼ってブランコへと腰を落ち着けた。指先が悴んで上手く 動かせない。腿に両肘を乗せ耳を押さえれば、普段体温の低いそこが手よりも温かで驚いた。

 楽になったろうか幸せになれたろうか。馬鹿なことをしたとは思わない。本当に?

 喧嘩は好きだった。殴って殴られてわけがわからなくなる。

 煙草も嫌いではない。浮くような沈むような地を感じさせぬ意識は喧嘩中のそれと似ている。 ただ金がないからはまらないように注意しているだけで。

 だがそれは幸せなのだろうか。自分は今楽だろうか。

 塞がれた耳はしかし、自分の声までは遮断してくれなかったようだ。脳味噌に満ち溢れる様々な脈絡のない 言葉に、ぎゅうと目を閉じて身体を縮める。寒くて、寒くて、寒かった。容赦なく皮膚を嬲る風に怒声を 浴びせたい思いを必死に抑える。

 帰ろうか帰るまいか。此処で眠ってしまおうか。親父は家にいるのだろうか。夢を見ることを望んではいない、 あの薬を飲めば深い眠りが得られるのか。あんな苦くて不味いものが幸せを創るのか。良薬口に苦し。 煙草は苦いが薬ではない。そもそも何を治すのか。この役に立たない脳味噌か、或いは歪んだ性格か、己の全てか。 治せば元通りになるというのか。この凍えた指先にとうに去った温もりが戻ってくるとでも?

 ぱたぱたと足元に落ちる水分を、城之内は涙だと思った。だが、拭った目元は乾いている。見上げると、 泣いているのは空の方であった。外灯の光が雨を白抜きにする。

 舌打ちは響くことなく薄闇に溶けた。立ち上がり、出口へと向かいながら屑篭を蹴倒す。

 屋根を求めて家へと帰る。

 寒くて暗くて苦い、家へと帰る。






2007/01/14の日記より。一部加筆修正。