愛に餓える



「お母さん!」

 彼女の姿を見つけた途端妹は走っていく。
まだ小さな脚を懸命に前後に動かし地面を蹴る。

 俺は彼女が、彼女の娘である俺の妹を抱き止める様子を見届けてから、腕から退いてしまった温もりに寂しさを 感じて、けれどもそんなことは少しも面に出さずにのろのろと歩を向ける。二人のところへ。

 ちらと彼女の視線が動いた。

 わかってる大丈夫大丈夫だよわかってるよ、俺馬鹿だけどもしかしたら静香より頭ワリィけどそれは 知ってんだ。

 俺がきていいのは此処まででしょう。

でもほらあんまり離れてるとおかしいだろ?親子なんだからさ、せめてこの辺りにはいさせてよ。

「夕飯なに?」

「カレーよ。…克也、好きでしょう?」

 取ってつけたようなその間はなに。

 返事は返さず、にっこと笑って喜ぶと彼女も笑った。
静香が俺を見て彼女を見て俺を見て「静香も好き!」 と叫ぶ。単純に可愛いと思う。頭を撫でてやった。妹に嫉妬したことはない。

「じゃあ早くかえろうぜーおれ腹ぺこ!」

「そうね。ほら静香、離して」

「はーい」

 妹はぱっと彼女から身を離し、彼女の手を取るではなく俺の腕に抱きついた。俺はびっくりしてそっと彼女の 顔色を窺う。にこにこしてる。読めない、と思ってから彼女の反応を気にする自分に胸が痛くなった。 何でかわからないけど痛くなった。

俺は心臓の病気かもしれないと時々考える。違うってわかってるけど考える。わざと考える。

 夕日がのんびりと沈んでいく。
見上げると、照らされた彼女はほんのり朱く染まっていて、綺麗だなぁと俺は思った。綺麗な彼女と可愛い妹は 俺の自慢で、宝物だ。

 家に帰って鏡を覗いて、ちっとも似ていないように思える自分の顔に首を捻る。大きくなったら似るのかも しれない。お兄ちゃん、と声がして、俺は慌てて食卓へ走った。



 引っ繰り返ったカレーの皿を腕で受け、熱い感触に城之内は小さく呻いた。何すんだ勿体無えと怒鳴ろうとして、 相手が酔っていることを思い出す。溜息を一つ吐いて、城之内は片そうとそっと立ち上がる。

「いッ…!」

「てめぇ糞ガキ、金どこに隠しやがった…」

 髪を乱暴に引っ張られて、酒臭い息が顔にかかる。金なんかない、と繰り返し頭を振っていると不意に 力が弱まる。ばたんと音がして男が倒れた。大きないびきが狭く汚い部屋を揺らす。

おいおい大丈夫かよと思って、 カレーの始末かこの男の始末か、城之内は一瞬だけ迷った。が、男の服にもカレーが付いているのを見て取り、 カレーの片付けを優先する。洗濯機の横に転がしてあった雑巾を水で湿した。

「おら糞親父、起きろよ」

 大方片付け、男の汚れた服も悪戦苦闘して脱がせると、未だ眠ったままのそれを爪先で軽く蹴飛ばす。 男は呻き、ぼりぼりと腹をかいた。

「…ち、風邪引いても知らねーからなっ!」

 無責任なことを言い放ちながらも、毛布を運んでくると男の上にかける。長く息を吐いて伸びをすると、 ぐうと腹が鳴った。しかし、今日の夕飯はもうない。

「カレー…」

 中学生になったばかりの城之内が、カレーなど作れるはずがなかった。
ではどうしたのかというとレトルトである。少々値の張るそれは普段なら絶対に買わないのだが、久々に どうしても食べたくなったのだ。

 城之内はのろのろと部屋の隅に向かうと、一度は捨てたレトルトの袋を、ゴミ箱から拾い上げた。幸い、 まだ見た目には綺麗なように見える。

袋の奥に残っている分を搾り出して(もう既に随分絞ってあったのだけれど、 それでも何とか搾り出して)、開け口に付いた僅かな量を舐める。極々少量のそれは、喉を通る前に唾液に 溶けた。

「…マズ」

 高いくせに、と思いながら料理を覚えた方がいいのだろうかと思案する。
それはそうに決まっていて、しかし城之内は面倒だ、とも思った。

 面倒だ、何もかもが。こんな面倒な思いをして どうして自分は生きているのか。でもカレーは食べたいとも思った。

 彼女のカレーは美味かった。

彼女のカレーには、具の他にもたくさんのものが入れられていて、レトルトの ように浅くて安っぽい味ではなかった。栄養バランスも良かったのではないだろうか。

あれなら毎日食べても 飽きない、と城之内は本気で思っていた。いや今も思っている。もう口にすることはないのだと思うと、 どうしようもなく、哀しかった。

 ふと尿意を催して便所へと急ぐ。用を足して手を洗っていると正面の鏡に自分が映っていた。

「似てねぇなぁ」

 他人には、両親のどちらにもよく似ていると言われる。
しかし城之内自身はそう思えず、気が付くとパーツの一つ一つを検分していたりするのだった。父親に 似た部分は幾つか見つけたのだけれど、母親にも似ている部分があるとは、到底信じられなかった。
(静香は母親によく似ている。)

「…あ」

 何気なく、伸びすぎた前髪を掻き分けて、城之内は鏡を凝視した。
真ん中をわけた一瞬、彼女の面影をそこに見た気がしたのだ。

ばさっと落ちてきた前髪に、城之内は慌てて 櫛を取る。水と櫛とで、寝癖を直すように整えただけだったが、真ん中でわけると少しだけ、自分が彼女に 似ているように見えた。

 もっと早くにこうしていれば、置いていかれることもなかっただろうか。

「けっくだらねー!あーあ、うぜー!」

 沈んだ己の思考に嫌気が差し、女々しさに吐き気がし、城之内は壁を蹴飛ばして洗面所を後にした。

 ぐうぐうと腹が鳴る。何日か前に仲間に貰ったガムを口に放り込んで、城之内は布団の上で丸まった。
髪を引っ張ると何本か抜けて、空腹感に指を噛んだ。

 カレー食いてぇなぁと思った。






2007/01/08の日記より。一部加筆修正。