ロマンチストの幸福論



 望めば何でも手に入ったのだ。

友達なんて数え切れない程いたし、皆の注目を浴びるのも簡単だった。バットを振れば当然のように ホームランが打てたし、勉強も、授業をサボッても高校に引っかかるくらいには出来た。 喧嘩に負けたことなどほとんどないし、女の子だって、選り好みしなければそれなりに寄ってきた。

 これ以上ないくらい普通だった。おそらく、あのまま生きても彼は幸せになれたろう。いや、その方が 幸せだったのかもしれない。平凡という二文字に甘んじれば、彼は退屈はすれど苦しむことはなかったはずだ。
なかったはずだ。

「何考えてんだよ」

「あ…?」

 瞼の暗闇から解放され網膜が光を得る。定まらない焦点をそれでも無理矢理に絞れば己に覆い被さる男が 見えた。

長い前髪から鋭い眼光が覗いて、見据えられることで分裂していた己が一つになる。客観的に我を思考していた 木村は、未だ夢から醒めぬような面で鷹村を見上げた。蕩けたような惚けたような表情は男の何処かしらを 扇動したらしく、間もなく唇に唇が落ちてきた。

「オレ様とのセックスの最中に他のことを考えてるとはいい度胸じゃねぇか」

「…嫉妬ですか」

「馬鹿言え」

 即行で返された返事に笑う。彼の真顔だったことに寄りそうになる眉根を引き離して。
口角を引き上げるのは大した労働ではない。ただし綺麗な左右対称にはならない。

「鷹村さん…こないだの俺の試合」

「最悪だったな。まさに小者だ。どうしようもねぇ」

「…あんたね、少しは思いやりってもんを持ったらどうなんです」

「アドバイスに思いやりは必要ねぇ」

「さっきのどこがアドバイスなんだよ…」

「いいから集中しろよ」

 声と共に腹の中が擦られた。排泄感に呼気を零す間もなく貫かれる。色気のない呻き声が洩れて木村は今度こそ 眉を寄せた。既に散々に擦られた入り口がひりひりと痛い。

「性処理にも思いやりは必要ねぇってか」

 は、と息を吐いたのが笑ったように聞こえた。鷹村もそう取ったか、いつもの意地の悪い笑みが浮かび上がる。 ピストン運動が激しさを増して、木村は苦痛と快楽とに身を捩った。木村の生理的な涙を拭う指はなかったが、 鷹村の首に回される腕もありはしなかった。繋がった下肢が粘着質な音を立てる。それは或いは 不快感も煽ったが、それでもそこだけが全てだった。

(此処だけ)

 繋がっているのは其処だけ。

伸ばしかけた手はシーツに縫い付けられた。その中に何もありはしない。頭の中では件の、男曰く「最悪だった」 試合が幾度もリピートされている。グローブを付けた手の中に、何もありはしない。

(虚しいなァ)

 思考の中で彼が笑う。揶揄うように己が嘲笑う。男に出逢わなければ幸せだった彼。

(出逢って追いかけて有意義かつ充実し過ぎた幸福な懊悩を手に入れた彼)

 それでも後悔をしない彼はただ苦しみを甘受する。
望んでも望んでも手に入らないことがあると、そう知った苦しみを感受する。

(一番大切なものはいつだって容易にこの手に収まりはしないのだ)

 聡いふりをした莫迦が泣笑った。

 下腹にて鷹村の精子を受け止めた直後、木村も互いの腹へ白濁を放った。
ほとんど同時に意識をも手放す。寸前に僅か力を入れた指先には、布の感触が残っていた。

真白く冷たい感触だった。






2006/07/09の日記より。一部修正。