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鳥になろうとした魚





【SIDE-F】


 世界が反転する。水が跳ねる。
透き通った飛沫は陽光を反射してきらきらと輝く。

(ああ、空だ。)

 あの青い色に憧れていた。

(いや違う。)

 大きく黒い影が横切る。彼は限りなく太陽に近い。

(高く。)

 空高く。

(なんて精悍な。)

 無様に跳ねるだけの自分とは違う。
この羨望の眼差しすら彼には届かない。

 水が跳ねる。

 宙に躍り出た魚はしかし、瞬く間に再び、水中へと吸い込まれていった。
鱗が陽光を反射してきらきらと輝く。

けれどその美しさも、上空を支配する彼の翼に比した時、一体どれだけの価値を誇れるというのだろうか。

 魚は空を見上げた。





 あの逞しい羽に憧れていた。





***





 敵対心が消え去り、感謝の念と共に仲間意識が芽生えた時のことは覚えている。わからないのはその先だ。

 一体いつ頃から自分は、あの男に尊敬などという感情を持ち始めたのだろうか。

 タオルで流れ落ちる汗を拭いながら、木村は目だけでジムの中を見渡した。

いやそうするまでもなく、目的の人間がこの場にいないことはわかっているのだが。彼の存在感は、いろいろな 意味で常人のそれとは比較にならない。気配がないのなら彼はそこにいないのだ。

ロードに出たか、地下室で一人シャドーでもしているのか。

 木村は諦めて視線を自分の足元へと移す。床に汗が幾滴か落ちていた。思考は再び、先程の疑問へと 戻っていく。

(初めてあの人の試合を生で見た後からだったか)

 あるいは、共に過ごす中で段々に構成されていったのだろうか。

 後者の考えの方が現実味があるように木村には思えた。

何故なら、あの男の試合内容といったら凄いもので、圧倒こそされるがとてもじゃないが憧憬の念など挟む 余裕がないのである。夢でも見ているような感じだ。おまけに時間にすればほんの一瞬ときている。

(いやでもやっぱり両方だろうな)

 見る者の思考にストップをかける試合。聞くだけで嘔吐しそうな練習量。日々の鍛錬により余分な肉は 削ぎ落とされているというのに、それでも見る者を威圧する、絶対的な力を思わせる身体。

 二人の人間が動き回り戦うことのできるリングでさえ、彼が上ると小さく狭く見える。まるで猛獣を閉じ込める 檻のようだ。踏み込んだら最後、一瞬にしてボクサーは哀れな生贄へと存在価値を変える。

 強さという言葉を証明するなら彼を連れてくるのが一番手っ取り早い。

 鷹村守。その固有名詞は即ち強いという形容詞とイコールなのだ。

「木村ぁ、なにボケッとしてんだよ。もう終わりか?」

 不意に背後から聞こえた青木の声に、木村ははっと我に返った。

「ああ、ワリ…。ちょっと休憩してたんだよ。ロード行くか?」

「おう、付き合うぜ」

 いそいそとグローブを外す青木を待つ。
こちらに向かってくるのを確認しジムの出入り口へ踵を返した木村は、だが不意に現れた強大な存在感に、 ぴたり足を止めた。

「鷹村さん」

 つい先刻まで木村の脳を支配していた男の顔に、不覚にも木村は釘付けとなる。

「よぉ、今からロードかよ。小雨降ってきたぜ」

 とろとろ練習してるからだこのノロマどもめ。

意地悪く嬉しそうに笑う鷹村は実際の年齢よりも幼く見える。いやその巨体を前にして幼いも何もないのだが、 精神年齢だけを見るならば彼は明らかに木村よりも下である。

(そんな事はない)

 単純に馬鹿ふざけをしているようでいて、実のところ全てを理解し呑み込んだ上での言動だったり する時もある。

 そしてそんなところもまた、彼の持つカリスマ性やら男気やらといった魅力の一部分となっている。

「小雨くらいどうってことないッスよ」

「ひどくなる前に行ってきちゃおうぜ。鷹村さんも、早く拭いた方がいいですよ」

 青木の声につられるようにして木村も喋る。
だが勿論その意識は先程の思考に飛んだままだ。木村は自分におうと言って返した男の行方を、瞬時目で 追った。

 そうして考える。

果たして彼を知って僅かでも羨望の光を目に宿らせない人間はこの世に。

「っしゃ!行ってくっか!」

 親友の声と、瞬き一つで木村は言葉になりかけた思いを取り消した。
わざわざ再確認すべきことでもなかったはずだ。

(あの人は遠い)

 目標だった彼の横っ面に一度だけ、確かに掠ったはずのこの拳も、今はそれ以上の距離の短縮を図ろうとも しない。

 隣を走る青木が、早くも出来上がった水溜りに片足を突っ込み、悲鳴を上げた。

「鷹村さんと行っときゃよかったな」

「畜生、普段行いの悪い奴がなんで助かってんだよ!」

「あの人は悪運も最強なんだよ」

 軽口を叩いて親友と共に笑う。作った笑みではない。

 無謀な挑戦をやめたのは諦観からではない。その矛先を他に向けただけだ。そして自分はそれを後悔して いない。

(この場所の居心地も)

 今の立ち位置も。

(悪かない)

 見えないくらいに遠いのに温もりが伝わるほど傍にいる。

 不意にどうしようもない幸福感と落ちるような不安感が、木村の中で同時に湧き上がった。重ならない二つの 感情の衝突に眩暈がする。視界が揺らいだ。

「木村?」

(ああそういや微熱が)

(平気だと思ったんだけど)

(カッコ悪ィ)

 倒れはしなかった。
座り込んだ頭上から親友の声が降ってくる。しかし、木村の脳内でその音が意味のある語になることは なかった。

 意識が途切れる寸前確かに見たものは、空を横切る大きな影だったように、木村には思えた。







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